上野千鶴子氏の東大入学式祝辞はヘタクソ

上野千鶴子氏の東大入学式の祝辞がネットの一部で話題になっています。

平成31年度東京大学学部入学式 祝辞 | 東京大学

読まないでおこうと思っていたけど、つい見てしまいました。

スピーチを行う上での基本を外したひどい内容だなぁと思われますが、一部からは評価する向きもあるようです。私は一読して、ヘタクソなスピーチだと思いました。

理由は以下の通りです。

前置きが長すぎる

全文を見ると、医学部の受験差別の件から始まり、東大女子が合コンでモテない話や東大生のセクハラ事件などの話が冒頭延々と続きます。

ビジネスでのプレゼンなどでは当たり前だと思いますが、掴みでどれだけ聴衆の関心を引きつけるかがプレゼンの肝だと思います。

冒頭の女性がいかに差別されているかについて細かい統計の数値(これも解釈がおかしいという話ですが)を延々と述べられても、場違いだし、全く関心を持つ事ができません。後半1/3は祝辞っぽくなりますが、後半の内容と冒頭の語りが余り機能的に繋がっていないように思え、これなら後半の内容を最初に持ってきて、何故そう思うのかを説明した方がいい祝辞になったように思います。現場で、これを聞いていた人は聴くのがかなり辛く、ポカーンとなったと思います。

(実際に現場の雰囲気もそういう感じだったようです

平成31年度東京大学学部入学式 上野千鶴子さんの祝辞で会場が大荒れ #東大入学式2019 - NAVER まとめ

 

他人の努力や意思を軽視している

ようやく祝辞の体裁を取る最後半部分については、賞賛の声が多いようにも思います。ただこれも伝え方としてはヘタクソだなぁと思っています。少し長くなりますが、全文引用します

あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。あなたたちが今日「がんばったら報われる」と思えるのは、これまであなたたちの周囲の環境が、あなたたちを励まし、背を押し、手を持ってひきあげ、やりとげたことを評価してほめてくれたからこそです。世の中には、がんばっても報われないひと、がんばろうにもがんばれないひと、がんばりすぎて心と体をこわしたひと...たちがいます。がんばる前から、「しょせんおまえなんか」「どうせわたしなんて」とがんばる意欲をくじかれるひとたちもいます。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。

この部分のロジックは、厳しい競争を勝ち抜いた人は、生存者バイアスに陥ってしまい、往々にして弱者の不遇に対して自己責任論を振りかざしてしまう危険に対して警鐘を鳴らしたものでしょう。趣旨はわかりますが、物言いが極端だと思います。

中学受験の激烈な競争などを見ていれば、環境に恵まれていただけで東大に合格できるわけではありません。この入学式に参加する為に、色々な我慢をし、無数の選択肢に対して、殆ど常に「頑張る」という選択を取ったからこそ出た結果だと思います。

「努力できるのも一つの才能だから、努力できなかった人たちの不遇は必ずしも自己選択、自己責任によるものとは言い切れない」と言えば良いものを、「貴方たちが頑張れたのは環境のおかげ」と言い切るのは、あまりにも個人の積み上げてきた意思を軽視する物言いだと思います。頑張れば報われると思えるようになったのは、環境もありますが、その人たちが頑張ってきたおかげでもあるのです。

このスピーチに対して、東大生からは反発の声が上がっている事について、嘆かわしいというような物言いも見かけましたが、彼らは勉強ができるものの、まだ18歳であり、自分たちの努力を「環境が良かっただけ」で切り捨てられた上に、唐突にノブレスオブリージュを持てと言われても納得できるはずもないと思います。

他者に対する想像力を持とうというスピーチなのに、そのスピーチをした上野千鶴子氏が目の前にいる東大生の心情に対して余りに想像力を発揮していないように思われ、いかに大切なメッセージだろうと伝わらなければ意味がない、伝え方の大事さについて、改めて考える事になったニュースでした。